2010年10月30日土曜日

asahi sports culture society octopus Paul died Germany

パウルよ、永遠に W杯大活躍の予言ダコ、各国で追悼

2010年10月29日8時8分

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写真:今年7月、サッカーW杯決勝戦を前にスペインの勝利を予言したタコのパウル=ロイター今年7月、サッカーW杯決勝戦を前にスペインの勝利を予言したタコのパウル=ロイター

 【ベルリン=松井健】この夏、1匹の小さなタコの選択に世界の視線が注がれ、その「予言」が的中するたびに人類に歓喜と驚き、八つ当たりから殺害予告ま で様々な反応を引き起こした。世界のサッカーファンは2010年サッカーW杯南アフリカ大会を語るとき、これからも26日に死んだ「パウル」の名前を懐か しく思い起こすだろう。

 パウルは自らの死については、だれにも予告しなかったようだ。オーバーハウゼン水族館の報道担当者は朝日新聞に「私たちにとっても不意打ちだった。そう何年も生きるとは思っていなかったが、この時点での死は予期していなかった」と話した。

 ネット上では「敗戦予言に怒っていただれかの報復か」という憶測も飛んだが、同水族館は「自然死」としている。館長は「彼の死を私たちはとても悲しく思うが、彼は私たちのところですてきな一生を送った」とコメント。館に半旗を掲げ、ファンのための追悼ノートも用意した。

 W杯の熱狂の後パウルは、水槽で「子どもたちを喜ばせる」という本来の役割に戻っていた。「夫が私を裏切っていないかご託宣を」といった奇妙な依頼も舞 い込んだが、水族館は今月上旬の朝日新聞の問い合わせに対し、「パウルがドイツの国内リーグや政治、経済などの予言をすることはない。次の欧州選手権かW 杯ではわかりませんが……」と思わせぶりな説明をしていた。

 パウルの死は各地で伝えられた。独DPA通信によると、優勝を的中させたために「英雄」扱いされたスペインでは、パウルを名誉市民に選んでいたカルバ リーニョという街が「遺体を引き取って博物館に飾りたい」とコメントした。生まれ故郷の英国ではBBCが番組を中断して、死を速報した。予言通りW杯決勝 で敗れたオランダでは、ラジオの司会者が「早く彼のタコシチューを作っていれば、我々はW杯王者だったのに」と未練がましく語った。

 オーバーハウゼン水族館は、パウルから予言の手ほどきを受ける予定だった若いタコを「パウル」と名付けるという。




2010年10月27日水曜日

kinokuniya shohyo 書評

2010年10月26日

『皇族−天皇家の近現代史』小田部雄次(中公新書)

皇族−天皇家の近現代史 →bookwebで購入

 2007年に成立した国民投票法案、多くの人が憲法9条の問題を想定した。しかし、ほかにもある。たとえば、天皇制にかんしてである。この国民投票、タ イミングがひじょうに重要で、なにかをきっかけにその時のムードでおこなわれると、将来に禍根を残すことになる危険性がある。その前に、充分に考えておく 必要がある。

 2006年に悠仁親王が誕生し、ひとまず継承問題は棚上げされているが、問題が解決したわけではない。日本の天皇家の問題より先に、皇室と深いかかわり のあるタイとイギリスで、深刻な事態が起こるかもしれない。タイは、明治天皇と同じ15歳のときに即位し、ほぼ同じ在位期間(1868-1910年)の チュラーロンコーン王(ラーマ5世)のときに近代君主制の基礎ができ、近年では秋篠宮家を中心に交流が密である。現在のプミポン国王(ラーマ9世)は 1927年生まれ、1946年以来の長期の在位が続いており高齢である。イギリスについては、もっと大きな問題があるかもしれない。日本の天皇制をめぐる 問題は、国内より先に海外からの影響によって巻き起こるかもしれない。

 イギリスにせよタイにせよ、近代に王制が生き残り、現在まで続いているのにはそれなりの理由があり、生き残り戦術があった。そして、第一次世界大戦の敗 戦国ドイツでは王制が廃止されたが、第二次世界大戦の敗戦国日本では天皇制が存続した。天皇制が存続し、今日に至っている理由の一端が、本書からわかる。

 近代天皇制は、男子皇族の軍人化によるところが大きい。1945年の帝国軍隊崩壊までの72年間に、陸軍に18名、海軍に10名の計28名が配属され、 大元帥である天皇のもとで軍事的役務を担った。軍人とならなかった皇族男子は、神宮祭主となった2人と健康上の理由があったひとりだけであった。その軍人 化は、イギリス王室に学んだことが、つぎのように書かれている。「ロンドンに着いた[東伏見宮嘉彰]親王は、欧州文明を学び、英国の儀式に参加し王室との 交流を結ぶ。日本の皇族としてはじめて海外の君主であるヴィクトリア女王に対顔、握手をしたりする。また、エドワード七世の平癒感謝会などに参列もした。 こうした経験から嘉彰親王は、欧州の王族が年少時より「海陸軍に服事し勉強せざるはなし」との見解を持ち、帰国後、自ら望んで陸軍少尉となり、皇族軍人の 道を開いたのである。当時、華頂宮博経親王はアメリカ海兵学校、北白川宮能久親王はプロシア(ドイツ)の陸軍大学校で、それぞれ学んでおり、皇族の軍人化 への環境は整えられていった」。

 いっぽう、女性は、後方支援の日本赤十字社の活動に従事した。「皇后は毎年行われる本社での総会にかならず出席し、皇族妃は戦時の繃帯(ほうたい)巻や 傷病兵慰問を担った。昭憲(しょうけん)皇太后(明治天皇の皇后美子(はるこ))基金など、皇室からの財政援助もなされた」。因みに、現在、名誉総裁は皇 后陛下、名誉副総裁は皇太子殿下・同妃殿下 秋篠宮妃殿下、常陸宮殿下・同妃殿下、三笠宮殿下・同妃殿下、�仁親王妃信子殿下、高円宮妃殿下である。

 戦後、国民とともに軍事的に国を守るというもっとも重要な皇族の役割のひとつは終わった。それは、1947年10月14日、伏見宮邦家の子孫である11 宮家51人の皇籍離脱というかたちでもあらわれた(第92代伏見天皇、在位1287-98年)。残されたのは、昭和天皇の皇后、皇太后、実子、実弟とその 家族だけだった。この皇室の危機に際して、軍事的役割にかわる役割を見出したのは、昭和天皇の実弟の高松宮だった。「高松宮はスキーや競馬、駅伝などのス ポーツ杯に関わったり、ハンセン病予防事業団である藤楓(とうふう)協会の初代総裁に就任した。また、かつての海軍関係の集まりにもよく出席した。国際親 善のため海外に渡航することも多かった。一九七一年には硫黄島での戦没者碑の除幕式に出席、一九七三年には皇族として戦後はじめて沖縄を訪問した」。この ように、スポーツ・文化振興、皇室外交、「戦後和解」などが、皇室の重要な仕事になっていった。

 著者、小田部雄次は、本書を終えるにあたって、「あとがき」で本書の特色を3点あげている。「第一は、維新前と後の皇族の違いを明確にする前提として、 古代から現代までの皇族を網羅的かつ実証的にまとめたことにある。その法令上の変遷などは本文で説明した」。「第二は、天皇と皇族との確執を描いたことで ある。皇族は、天皇の血族でありながら、天皇との反目も多く、そうした両者の対立が近代史に深刻な影響を与えてきた。とりわけ、昭和初期以後の戦争の問題 では、天皇と皇族との政治認識や軍事判断の違いがしばしばみられ、混迷する政局や戦局の主要要因ともなっていた。大元帥昭和天皇と、参謀総長閑院宮載仁 (ことひと)親王、軍令部長(のち軍令部総長)伏見宮博恭(ひろやす)王の三巨頭体制は、常に齟齬(そご)が目立ったのである。従来の研究ではこの二人の 皇族総長は軽視されがちだったが、自らの権威を背景に、天皇と対抗するほどに軍事的影響力を持っていたのである」。「第三は、皇族が負った戦後和解の問題 である。天皇と皇族とでは戦争や戦後処理に対する意識に大きな落差があった。戦後の昭和天皇と高松宮との間の亀裂は、その反映であった。そして、天皇家の 負った戦後責任の処理のあり方は、戦後の皇室や外交の歩みを左右した」。

 そして、「皇位継承問題のみならず、民主主義社会における天皇家存立の可能性」の議論は、「皇室のみならず、社会を構成する我々の問題でもある」と読者に問いかけている。

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asahi shohyo 書評

写真のこころ [著]平木収

[掲載]2010年10月24日

  • [評者]石川直樹(写真家・作家)

■写真との出会い求める人に

  まだ10代だった大学時代に、ぼくは平木収さんの写真史の授業を受けていた。旅に明け暮れていた学生時代にあって、まともに出席した数少ない授業の一つで ある。暗くなった教室でスクリーンに投影される数々の写真作品を見つめながら、平木さんのもぞもぞとした語り口に一心に耳を傾けた。「写真史」や「写真 論」などといったカリキュラムはどこの大学にもあるものではなく、まだ写真を撮り始めて間もない頃に、そうした授業によって、カメラという機械を使って世 界に直(じか)に触れていく写真家という在り方を知ることができたのは非常に幸運だった。あのとき平木さんと出会っていなかったら、今まで10年以上も自 分が写真を撮り続けることなどできなかっただろう。

 本書は、昨年59歳で他界した彼の最初で最後の単著である。「アサヒカメラ」や「日本カメラ」をはじめとする写真雑誌や写真集 などに掲載された文章・対談を選(え)りすぐって編集したもので、30年間におよぶ彼の評論活動を凝縮した構成になっている。比較的短めのテキストの集積 でありながら、彼の人生と写真史が呼応しながら進み、1970年代後半から世紀末にいたる写真界の一断面を明確に浮かび上がらせる。

 濱谷浩らを取り上げた熱のこもった作家論は、私論と銘打ちながらも、作家自身の仕事ばかりでなく戦後の日本社会における写真家 の役割を問い直すものになっている。自身も自主ギャラリーの運営に携わり、学芸員として美術館に勤務した経験を持つ平木さんは、写真を志す者に対して常に 門戸を開き、決して突き放さなかった。小さなギャラリーや地方の写真イベントにも足繁(しげ)く通い、持ち前の優しさでようやく地面に顔を出したばかりの 新芽を掬(すく)い上げてきた彼の志向は、先鋭的な美術評論というよりはむしろ、写真を撮る人と見る人とのあいだに立ってそこに発展的な関係を築くことに 重きが置かれていたように思う。写真との新しい出会いを求める人々に本書をお薦めしたい。

    ◇

 ひらき・おさむ 49年生まれ。写真評論家、写真史研究家。09年に死去。

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写真のこころ

著者:平木 収

出版社:平凡社   価格:¥ 2,310

asahi shohyo 書評

我的(われてき)日本語 [著]リービ英雄

[掲載]2010年10月24日

  • [評者]鴻巣友季子(翻訳家)

■「言葉の杖」は一本ではない

 人は誰しも言葉の杖(つえ)を掴(つか)んで生きる——韓国系芥川賞作家の故・李良枝(イ・ヤンジ)はそう書いた。母(国)語と使用言語の間に全く分裂がないことは、世界的に見ればむしろ希有(けう)なことなのだ。

 日本は人種、民族、文化、言語が長いことほぼイコールで結ばれてきたが、その書き文字は成立過程で分裂を経験している。漢字と いう外来語を土台に、そこから作られたカタカナ、大和言葉を表すひらがなの共在。リービ英雄は自伝的日本語論である本書で、「日本語を書く緊張感とは…… 日本語の文字の歴史に否応(いやおう)なしに参加」することであり、そこに惹(ひ)かれて日本語に深く入りこんだと述べている。人麿も初めは「『翻訳』し ているような気持ち」だったのではないか。書き文字の誕生に際して生じた「ズレの記憶」に彼は共感を覚えるという。

 ところが日本人には、よそ者はこの「言霊」に同化できないとする考えが根強く、アメリカ人の著者が日本語で書くと当初は嫌な顔をされた。求められたのは日本文学にノーベル賞をもたらす英訳者だったのだ。

 カナダのさる批評家によれば、作家は助産婦であり、作家を通して文学史が滲(にじ)みでる。では、米国を襲った9・11テロ は、リービ英雄を通してどのように滲みでたか? その体験が小説として形をとる時、触媒となったのは松島を詠んだ芭蕉の俳句だった。また、中国の仮水(偽 の水)で腹を壊せば、「仮」は中国では主に「ニセ」を意味するが、今の日本では「一時的」の意味が強くなるという差異に思いを致す。万葉以来、日本語が うっすらと有してきた「言葉の二重の謎」を体感し、小説『仮の水』が生まれたという。

 ナボコフ、ラシュディ、クンデラ。これまでの越境文学は、多くが政治的、歴史的、経済的な「副作用」だった。だが母語と異言語 に関して「人間はそんなに単純なものではない」と多和田葉子の言葉が引かれる。自分が自分であるための言葉の杖は一つではない。母(国)語とも限らない。 日本語「で」ではなく、日本語「を」生きてきた人の確かな足跡がここにある。

    ◇

 りーび・ひでお 50年生まれ。米国人の日本語作家。『千々にくだけて』で大佛賞。

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我的日本語 The World in Japanese (筑摩選書)

著者:リービ 英雄

出版社:筑摩書房   価格:¥ 1,575

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仮の水

著者:リービ 英雄

出版社:講談社   価格:¥ 1,575

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千々にくだけて (講談社文庫)

著者:リービ 英雄

出版社:講談社   価格:¥ 620

asahi shohyo 書評

戦争と広告 [著]馬場マコト

[掲載]2010年10月24日

  • [評者]四ノ原恒憲(本社編集委員)

■戦意昂揚へ、なぜのめり込んだか

 我々の生活は、広告に、日々浸されている。商品に限らない。選挙だって、いわばプロの手が入った"広告合戦"だ。

 でも、その程度なら個人の判断で、無視もできるが、恐ろしいのは、「戦争」と結びついた場合だ。その正当性を訴え、人々を戦場 に送り、結果、多くの死が残る。だが、戦時下、最も強力で資金も潤沢な国という広告主の発注に、広告人は抗(あらが)えるのか。本書は、資生堂を中心に、 戦前、戦後を通じて、日本のグラフィックデザイン界をリードした山名文夫(やまな・あやお)の生涯を追いながら、この問題に迫る。

 昭和初期からモダンで繊細な才能を開花させた山名。が、戦線が拡大し、ほとんどの商品が配給制に変わり、企業内で広告の腕を振るう場がなくなる。

 一方、国は、世論を「聖戦」に向けて"健全"に導く有能な広告の作り手を求めていた。企業内の仕事を断たれた広告人たちは、そ の誘いを受け入れ1940年に報道技術研究会を結成する。委員長は山名、建築家の前川國男や、学者、画家を含め総勢23人。彼らのセンスと技術を全力投入 した作品は、ず抜けた表現レベルにあった。以降、情報局や大政翼賛会の後援や発注を受ける形で、太平洋戦争の「必然」を視覚化した「太平洋報道展」やポス ター、壁新聞などを作り続け、敗戦まで仕事の絶えることはなかった。

 なぜ、広告人たちは、戦意昂揚(こうよう)にこれほどのめり込んだのか。同じ業界に身を置く著者は書く。「時代の空気と時代の水に晒(さら)されていないと呼吸が止まってしまうのが、昔も今も変わらぬ広告の仕事なのだ」と。

 憲法9条を語り、「戦争は嫌だ」という著者はまたこうもいう。「時代の子」である広告人の業として、自分も戦争が起これば必ず「戦争コピーを書くだろう」。だから、そんな時代を迎えないためにも「戦争をおこさないこと、これだけを人類は意志しつづけるしかない」。

 この戦時下の物語には、前川を始め、花森安治、亀倉雄策ら戦後文化の先頭を走った人々が多数登場してくる。「戦争」の吸引力の何と巨大なことか。

    ◇

 ばば・まこと 47年生まれ。広告会社主宰。広告で数々受賞のほか、小説も執筆。

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戦争と広告

著者:馬場 マコト

出版社:白水社   価格:¥ 2,520

asahi shohyo 書評

仏教と西洋の出会い [著]フレデリック・ルノワール

[掲載]2010年10月24日

  • [評者]柄谷行人(評論家)

■チベットへの憧れ、「鏡」としての歴史

  本書は、仏教が西洋においていかに受容されてきたかを古代・中世から包括的に考察するものである。その場合著者は、西洋人は仏教の理解を通して、実際は、 自らの問題を表現してきただけだ、という見方を一貫して保持している。たとえば、ヨーロッパ近世の宗教論争においては、仏教に似ているという理由で他派を 批判したり、その一方で、カトリック教会はラマ教(チベット仏教)に開放と寛容の態度を見出(いだ)し、それがカトリックに類似すると考えたりした。ま た、18世紀の啓蒙(けいもう)主義者は、カトリック教会を攻撃するために、仏教の合理性を称賛した。つぎに、ロマン派は啓蒙主義を攻撃するために、仏教 を称賛した。さらに、ショーペンハウエルは、生を苦とみなす自分の考えが仏教と合致すると考えた。その結果、仏教は、彼のいう「仏教厭世(えんせい)主 義」と同一視されるようになった。

 以上のように、中世から今日にいたるまで、仏教は西洋人が己を見る「鏡」以上ではなかった。ただ、本書が示すのは、西洋で 「鏡」として最も機能したのはチベット仏教だということである。極東の仏教、特に日本の禅がもった影響力は少なくないが、知的なものであり、その範囲が限 られていた。一方、チベット仏教は大衆的に影響力をもっている。西洋にはチベットへの憧(あこが)れが中世からあった。一つには、20世紀にいたるまで外 国人が入れない「神秘の国」であったからだ。さらに、ラマ教が輪廻(りんね)転生の教義やそれに付随するさまざまな身体技法をもっていたからだ。これは、 ブッダの教えの真髄(しんずい)が輪廻転生するような同一的な自己を仮象として批判することにあるとすれば、まったく仏教に反する見解である。しかるに、 チベットでは輪廻転生の考えにもとづいて、ダライ・ラマの後継者が決められている。

 要するに、西洋人が「仏教」に見出すのは、西洋に存在しない何か、輪廻転生の理論やそれにもとづく魔術の類なのである。19世 紀末にブラヴァツキーらが始めた神智学協会は、チベット仏教を称揚し、心霊的自我が転生するという考えを広げた。それは今日の「ニュー・エイジ」につな がっている。著者は、エドガール・モランの「西洋は、自身の東洋を抑圧しつつ形成された」という言葉を引用する。つまり、チベット仏教は、西洋人にとっ て、みずからの内なる「抑圧された東洋」を開示するものだ、ということになる。

 しかし、本書の限界もそこにある。チベットは西洋の外に歴史的に存在する他者である。その社会がかつてどのようなものであり、 今どうなっているかを見ることなしに、表象の批判だけですますことはできない。また今や、チベット仏教はたんに西洋人の「鏡」としてあるのではない。たと えば、ダライ・ラマ14世が世界を救済する指導者として熱烈に賛美されるとき、チベット仏教は、西洋人が中国共産党やイスラム原理主義者を抑制するための 政治的な手段として利用されている。

    ◇

 今枝由郎・富樫瓔子訳/Frederic Lenoir 62年生まれ。フランスの宗教学者・ジャーナリスト・作家。2004年、「ルモンド」紙の宗教専門誌編集長。邦訳のある共著に『ダ・ヴィンチ・コード実証学』など。

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仏教と西洋の出会い

著者:フレデリック・ルノワール

出版社:トランスビュー   価格:¥ 4,830

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ダ・ヴィンチ・コード実証学—現地取材で解明された、小説の裏側

著者:マリ=フランス エトシュゴワン・フレデリック ルノワール

出版社:イーストプレス   価格:¥ 1,575

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「陰陽の大刀」なぜ大仏の足元に 光明皇后の思いは?

2010年10月26日5時51分

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写真:金銀荘大刀は大仏の足元から発見された=25日午後、奈良市の東大寺大仏殿、矢木隆晴撮影金銀荘大刀は大仏の足元から発見された=25日午後、奈良市の東大寺大仏殿、矢木隆晴撮影

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 約1250年間も行方が分からなかった正倉院宝物の幻の大刀(たち)「陽寳劔(ようほうけん)」「陰寳劔(いんほうけん)」は、東大寺の大仏の足元から 100年も前に見つかっていた国宝の金銀荘大刀(きんぎんそうたち)だった。東大寺では今月15日から3日間、光明(こうみょう)皇后(701〜760) の1250年忌が営まれたばかり。なぜ大仏の足元に大刀は埋められたのか? 古代史の謎がまた一つ増えた。

 保存修理を任された元興寺(がんごうじ)文化財研究所(奈良市)が、さやに入ったままさびた大刀をX線で撮影したのは9月30日。そこに浮かび上がった 「陽劔(ようけん)」「陰劔(いんけん)」の文字に、橋本英将研究員は「除物(じょもつ)」となった正倉院宝物の「陽寳劔」「陰寳劔」だと確信したとい う。

 聖武(しょうむ)天皇の即位後、たびたび飢饉(ききん)が起き、737年には天然痘が大流行した。聖武天皇と光明皇后は仏教の力で国を治める鎮護国家を実現するため、全国に国分寺、国分尼寺を建立するとともに、東大寺を建て、大仏を造立する一大事業に着手した。

 光明皇后は、初めて皇室以外から迎えられた皇后だった。仏教をあつく信じ、続日本紀(しょくにほんぎ)などによると、皇后になった翌年の730年には平城京に病人や孤児を救済する施設の悲田(ひでん)院、薬草などによる治療所の施薬(せやく)院を置いた。

 「陽寳劔」「陰寳劔」は聖武天皇の遺愛品六百数十点の目録「国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)」のなかでも、大刀の筆頭に登場する宝物だった。それを正倉院から持ち出したのは、妻であり、献納した光明皇后以外にはいないとされてきた。

 古代史を題材にした作品を手がける漫画家の里中満智子さんは「夫の大刀を正倉院よりもっと大仏に近い場所に埋めることで、夫婦一緒にあの世で仏様の加護を、と祈ったのかもしれない」と言った。

 東野治之・奈良大教授(古代史)は「聖武天皇を供養するため」とみる。「光明皇后の強い思いのこもった品だったのでは」と語った。

 別の見方もある。

 聖武天皇が亡くなった翌年の757年、皇位継承にからむクーデター未遂事件「橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変」が起きた。758年7月には光明皇后は体を壊し、759年4月と760年1月には聖武天皇の別の夫人2人が世を去った。

 奈良文化財研究所の渡辺晃宏・史料研究室長は「自分が死ねばますます世が乱れる、と光明皇后の不安は大きかったはず。すがるような思いで、大刀を大仏にささげたのではないか」と推測した。

 760年6月に世を去った光明皇后にはもう一つ、大きな気がかりがあったと考えられている。聖武天皇の跡を継いだ娘・孝謙(こうけん)天皇 (718〜770)に子どもがいなかったことだ。文武(もんむ)天皇、その子・聖武天皇、孝謙天皇と、古代最大の内乱・壬申(じんしん)の乱(672年) を制した天武天皇の血統が絶えようとしていた。

 東大寺の森本公誠長老は「陰陽の大刀は、奈良時代よりも古い時代の大刀という見方があり、天武天皇から代々伝わった宝剣だった可能性がある。皇后は自ら の死期が迫るなか、別の血統の世に大刀を残すことが気がかりで埋めたのではないか」と話した。(成川彩、渡義人、編集委員・小滝ちひろ)