2012年6月30日土曜日

asahi science biology archeology history tortoise turtle kame koubi fossil

2012年6月30日16時3分

カメ寄り添って4700万年 交尾中?の化石見つかる

写真:交尾した状態のまま化石になってしまったカメのつがい。左がメス、右がオス=バイオロジーレターズ提供拡大交尾した状態のまま化石になってしまったカメのつがい。左がメス、右がオス=バイオロジーレターズ提供


 ドイツなどの研究者が、約4700万年前に交尾した状態のまま化石になってしまったとみられるカメのつがいを見つけた。英科学誌バイオロジーレターズの電子版に発表した。チームは、交尾している脊椎(せきつい)動物が化石で見つかった例は世界で初めてとしている。

 化石が見つかったのは、世界遺産にも指定された独南部のメッセル・ピットという、化石が多く見つかる地域。甲羅の大きさが20センチ前後のスッポンモド キというカメの化石が複数掘り出された。そのうち、体の大きさやしっぽの特徴などから雄と雌のつがいだとわかった9組を詳しく調べた。

 その結果、少なくとも2組は体の向きや、尻尾がからみ合っていたことなどから交尾中だったと突き止めた。ほかのつがいは、はっきりとは分からなかったが、体の向きなどから交尾中とみられるという。

 一帯は火山性のガスや、有機物が腐ることで有毒な状態になっていた可能性があるという。研究チームは「雄と雌は最初は安全な場所にいたが、抱きしめ合っている間に毒のある深みにはまってしまったのではないか」と推測している。(小坪遊)





kinokuniya shohyo 書評

2012年06月30日

『ヤリチン専門学校—ゼロ年代のモテ技術』尾谷 幸憲(講談社)

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「男性側から「性愛至上主義」の崩壊を描いたルポルタージュ」

 本書は、かの「東スポ」こと「東京スポーツ」紙に連載された記事が元になったものであり、その点からも、半分以上は「ネタ」として差し引きつつながら、 面白がって読み進めるべきなのだろう。だが、それでもなかなか他書が踏み込めていないような現状が描かれた、興味深いルポルタージュとして評価に値するも のとして紹介したい。

 まえがきでも記されているように、この本の本来の目的は、「彼ら(=カリスマナンパ師。※評者補足)が日々使っているモテ技術をあますことなく紹 介していく」ことにあったのであり、いわゆるナンパ指南術的なマニュアル本を意図して行われたインタビュー集だったのだという。


 ところが興味深いことに、その意図とは裏腹に、むしろそうした高等なテクニックを必要としたような、「80年代あるいは90年代的な」性愛至上主義的な文化がすでに崩壊しつつあることが、結果的に記述されることとなってしまったところに、本書の最大の面白さがある。


 それは、今の若い女性たちが「高い店を嫌う傾向があり」、「オシャレな雰囲気を楽しむより、気楽に飲んでダラダラと話すのが好き」なため「居酒屋を支持 する女性の方が圧倒的多い」(第四回 安い居酒屋はモテる!)ということや、「高いブランド物を着てればモテるなんて発想自体が古い」(第八回 ブランド 信仰は終わった)ということ、あるいは、多数のクルマが乗り付けたナンパスポットがもはやクルマオタクの社交場と化し、女性たちには「車に対する思い入れ がない」(第九回 車ナンパの時代の終焉)といった記述などに典型的に表れている。


 いわば、半ばゲーム感覚に記号的な消費行動を競い合い、その延長線上のゴールとして性愛行動が位置づけられていたような文化は、すでに遠い過去のものと なってしまったのだ。こうした変化を鮮やかに、それもリアリティをもって描き出したところに、本書の価値があると言えるだろう。
だがその一方で、本書が描き出しているのは、若者が性愛行動から完全に撤退してしまったということでもない。それはいうなれば、消費行動の先の至上のゴール(=性愛至上主義!)ではなく、もはや複数あるうちの一つの楽しみ(=ワンノブゼム)になったということなのだ。


 そしておそらく、こうした変化を先取りしているのは、男性よりも女性たちなのだ。だからこそ、しばらくの間、男性たちは「置いてけぼり」を食わされているのだろう(いわゆる草食系男子もこうした「置いてけぼり」の状態なのだと理解することができるのではないだろうか)。


 そして置いて行かれた男性たちが、女性たちとの新しい向き合い方を求めた取り組みの一つとして、本書が位置づけられよう。このように「講談社アフター ヌーン新書」には、一風変わった視点から、新しい性愛や関係性を描いた好著が多い。そのタイトルからしても、誰もが手に取りやすい著作ではないが、新しい 時代の性愛文化を考える一冊として本書をお勧めしたい。


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2012年06月29日

『学術出版の技術変遷論考』 中西秀彦 (印刷学会出版部)

学術出版の技術変遷論考 →bookwebで購入

 グーテンベルクの徒弟にペーター・シェッファーという男がいた。シェッファーは徒弟とはいってもパリ大学に学び、グーテンベルクに出資したフスト が印刷工房を差し押さえると工房をまかされ、後にフストの娘と結婚して印刷を家業とした。シェッファーの息子は1514年に印刷術の発明者はグーテンベル クだと記し、それがグーテンベルクが活版印刷を発明したことを証明する最初期の記録となっている。

 近年のハイテク調査によってグーテンベルク聖書には後代に継承されなかったさまざまな技術が駆使され、試行錯誤をくり返していたことがわかってい る。シェッファー自身が記録を残すか、息子がもうちょっと詳しい記録を書いておいてくれればグーテンベルク革命の実態がわかったのだが、そうはならなかっ た。

 20世紀の最後の20年間に印刷出版の世界ではグーテンベルク以来の大変動が起こった。ほとんどグーテンベルク時代そのままの技術でおこなわれて いた活版印刷は写真写植に移行し、さらにはコンピュータ印刷に全面的にとってかわられたのだ。日本では1990年代には活字は姿を消し、博物館の中でしか 見られなくなった。

 本書は京都で学術書の印刷を手がける中西印刷という印刷所を定点として活版印刷からコンピュータ印刷への変遷を記録した本である。著者の中西秀彦氏にはすでに『活字が消えた日』というエッセイ風の著書があるが、本書は実証的な学術書としてより広い見地から執筆されている。

 中西印刷は慶応元年に創業し、創業家が7代150年にわたって経営をつづけている。京都府庁の印刷が主な業務だったが、第二次大戦後は学術書に業 務の中心を移した。学術書にはめったに使われない漢字やアラビア文字のような活字化しにくい文字、西夏文字のように廃れてしまった文字が使われる上に、割 注のような特殊な組版もおこなわれる。技術的な工夫が必要なのはコンピュータ印刷になってからも同じかそれ以上だったという。どんな難しい組版でも活版な ら職人が手を動かしただけ進むが、コンピュータ組版だと標準からはずれた作業はシステムを改変するまではまったく進まなくなってしまうからである。

 シェッファー家は記録らしい記録を残さなかったが、学術書の印刷を手がけてきた中西家がグーテンベルク以来の印刷革命にあたって本書のような記録を後世の批判に耐える残してくれたのは幸いだったというべきだろう。

 本書は七章にわかれる。第一章は総説、第六章はまとめ、終章は学術文書のXML化の展望で、第二章から第五章までが本題の歴史記述になる。活版印 刷時代から電算写植をへてコンピュータ組版にいたるまでが四章にわけて語られるが、各章は以下の四つの位相から考察されている。

  1. その段階の技術の印刷史上の位置づけ
  2. 文字コードと漢字問題
  3. 中西印刷の対応
  4. 中西印刷で製作された作例

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2012年06月29日

『21世紀メディア論』水越 伸(放送大学教育振興会)

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「メディア論テキストのニュー・スタンダード」

 本書は、放送大学の大学院向けに書かれたものであり、私も今年度前期の大学院ゼミでの購読テキストに指定した。だがそのわかりやすさと内容の濃密さからして、一定レベル以上の大学であれば、読み応えのある学部テキストとしても使ってほしいと感じた。

 さて、その内容だが、まずもってバランスの良さという点が長所として挙げられるだろう。著者が旧来専門分野としていた、メディアの生成段階に関す る社会史的な記述に始まり、新たに普及の進むメディアや、あるいは日本社会における独特の問題点、さらに、メディアを考察する上で求められるべき理論的な 視座の検討にまで及ぶ。


 その上で、近年著者が強い関心を寄せている、メディアリテラシーの実践的な取り組みに関する検討や紹介にも重点が置かれ、この先のメディア社会に対する提言も十分に含んだ内容となっている。


 日本社会において、これほど多岐にわたる内容をバランスよく取り上げたメディア論テキストは、寡聞にしてほとんど存在しないといってよい。伊藤守編著 『よくわかるメディア・スタディーズ』(ミネルヴァ書房)も、本書を凌ぐ幅広い領域を取り上げている良書だが、本書は一人の著者によって一貫して書かれて いる点でも価値がある。


 実際に講義を担当する教員の一人としても痛切に感じることだが、(あるいは、この領域に限らず近年のアカデミズム全般にも言えることだが)タコつぼ化の進行は本当に顕著で、総合的な視点を教え込むのに、本当に苦労する時代である。


 メディアについて言えば、旧来からのマスコミ論だけでなく、新しいメディア(ケータイやインターネットなど)についても教えなければならないし、これからの時代を見据えるならば、机上の空論よりも、むしろ実践的な内容も織り込まなければと思いもする。


 だが、大学というのは意外に時代への適応が遅いところであり、出版論、通信論、放送論といったように、それぞれには重要であるものの、個別化した講義の設定がなされる一方で、これらの俯瞰する総合的な視点を学ぶ機会がなかなか存在しなかった。


 この点で、様々なメディアの動向を一つの生態系になぞらえてとらえようとする「メディアビオトープ」という著者の概念は、ユニークであると同時に、まさにこうした目的にかなったものと言えるだろう。


 さらにこの「メディアビオトープ」という概念が、単なる分析のためだけでなく、望ましいメディア社会を構想していくために、実践的に用いられている点からもしても、今後の研究や実践に関する展開可能性を強く感じさせる良書だと言える。


 強いて一点だけ述べるならば、この「メディアビオトープ」を繁茂させていくための原動力として取り上げられている「メディアリテラシー」や、あるいはそ の根底にある「メディア遊び」の実例について、いわゆるオタク文化やファン文化の事例が取り上げられなかったことが残念でならない。


 著者は、「メディア遊び」を「メディアと人間の関係性を批判的にとらえ直し、新たな可能的様態を探る営み」(P171)と定義し、いくつかの事例を紹介 しているのだが、そのようなメッセージ性を持ったコンテンツの創造であったり、あるいは新たなコミュニケーション形態の発展については、日本社会では、ま さにオタク文化こそがその先鞭を担ってきたと言えるのではないだろうか(たとえば、既存のマスメディアとは違った流通経路としての「コミケ」や「インター ネット」、あるいはそこで新たに創造されてきた諸々のアニメやマンガ作品などを想起するとよい)。


 しかしながら、この点を差し引いても、本書は、現在の日本におけるメディア論のテキストとして、これまでとは一線を画した、新しいスタンダードに位置付けられるものとして高い評価に値するものである。ぜひ幅広い読者層に、読んで頂きたい一冊である。


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2012年06月28日

『電子本をバカにするなかれ—書物史の第三の革命』 津野海太郎 (国書刊行会)

電子本をバカにするなかれ—書物史の第三の革命 →bookwebで購入

 電子書籍について早くから発言してきた津野海太郎氏の論集である。

 三部にわかれ、第一部は本書のための書き下ろし、第二部は2001年から2009年までに発表した電子書籍関係のエッセイ、第三部は1986年にリブロポートから出た『歩く本—ブックマンが見た夢』に収載されたブラッドベリ論の再録である。

 第一部「書物史の第三の革命』は欧米で1950年代に同時多発的に生まれた書物史の観点から電子書籍を見直す試みである。

 昨今の電子書籍論は近視眼的なビジネスの話ばかりだが、五千年の文明の流れで見ると、電子書籍は文字の発明による口承記録から文字記録への移行と いう第一の革命、東洋では10世紀、西洋では15世紀にはじまる印刷術による写本から印刷本への移行という第二の革命につづく第三の革命として位置づけら れる。

 これまでの革命では冊子本によって巻子本が、印刷本によって写本が廃れたように全面的な代がわりが起こったが、第三の革命でも同じことが起こるのだろうか?

 津野氏はそうはならないだろうという。第二の革命の写本と印刷本の競争は同じ紙の本同士の競争だった。同じ土俵でぶつかる以上、馬車が自動車に とってかわられたように、一冊一冊書き写す写本が一挙に大量のコピーが作れる印刷本に圧倒され、駆逐されるのは必然だった。しかし電子本はモノではない。 紙の本とは次元が違うのだ。電子本は場所をとらない、資源を消費しない、文字の拡大が可能、検索性など紙の本よりすぐれた面がある反面、一瞬で跡形もなく 消えてしまうなど非物質であるがための固有の欠陥がある。馬車と自動車は並び立たなくても自動車と飛行機は共存可能なように、紙の本と電子本は棲みわけ可 能というわけだ。

 ただし棲みわけるといっても、紙の本の比重が下がっていくことは避けられないし、資源の観点からは望ましいことだと津野氏は結論する。中国やインドの人たちが日本人と同じだけの印刷本をもとうとしたら、世界中の森林は丸裸になってしまうからだ。

 津野氏の議論にはおおむね同意したいし、そうなってほしいが、音楽メディアの交代を考えると疑問がないわけではない。音楽の場合SPはLPに、 LPはCDにとってかわられ、今CDがオンライン配信におきかわりつつある。SP、LP、CDはいずれもモノだが、オンライン配信は非物質である。物質的 メディアから非物質的メディアへの全面移行が起こりつつあるのだ。

 もちろん紙の本が全滅することはないだろうが、中小の書店が存続不能なまでに市場が縮小するということは十分ありうる。今、町のレコード店はどんどん潰れているが、書店もそうならないという保証はないのだ。

 第二部には今はなき『本とコンピュータ』誌関連の文章や、『電子書籍奮戦記』の萩野正昭氏との対談、グーグル・ブックサーチ騒動関連の文章がならぶが、一つだけとりあげるとしたら「ウィキペディアとマチガイ主義」という2009年のエッセイである。

 ウィキペディアに間違いが多いのはご存知の通りだが、津野氏はウィキペディアをはじめた連中は確信犯的マチガイ主義者だなと直感したという。

 急いでお断りしておくと、「マチガイ主義」は津野氏の造語ではない。チャールズ・パースの fallibilism(「可謬主義」と訳されることが多い)に鶴見俊輔があてた訳語である。『アメリカの哲学』から孫引きする。

 絶対的な確かさ、絶対的な精密さ、絶対的な普遍性、これらは、われわれの経験的知識の達し得ないところにある。われわれの知識は、マチガイを何度 も重ねながら、マチガイの度合の少ない方向に向かって進む。マチガイこそは、われわれの知識の工場のために、最もよい機会である。

 これこそプラグマティズムのエッセンスだろう。日本人、特にインテリは「マチガッテハイケナイ主義」にがんじがらめになっており、間違っても直せばいいというアメリカ流の乱暴でマッチョな文化を毛嫌いするという指摘はなるほどと思った。

 第三部の「歩く本—ブックマンが見た夢」と題したブラッドベリ論はわざわざ再録するだけあって、一番面白かった。

 表題にある「ブックマン」とはもちろn『華氏451度』に登場する、森に隠れて本を暗唱する人々のことである。

 1953年に上梓された『華氏451度』に当時猖獗をきわめたマッカーシズムが影を落としているのは常識に属するが、津野氏は1952年の線文字Bの解読の成功と、その後に起こった文字に対する関心の高まりもと影響しているのではないかという。

 この仮説は無理筋だと思うが、ブックマンを琵琶法師のような放浪の藝能者になぞらえる見方はぞくぞくするほど魅力的だし、日本が破滅して『坊ちゃん』が口承伝承の過程に置かれたらどのように変形していくかという想像にはセンス・オブ・ワンダーをおぼえた。

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2012年6月29日金曜日

asahi shohyo 書評

宗教なんかこわくない! [著]橋本治

[評者]大澤真幸(社会学者)

[掲載] 2012年06月26日

表紙画像 著者:橋本治  出版社:筑摩書房 価格:¥ ---

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■オウム真理教の亡霊から離脱するには
  
 もうこの国にはいないのではないか? もう生きていないのではないか? そんな思いすら抱きかけていたオウム真理教の指名手配犯が、ここにきて相次いで逮捕された。
  まず平田信が、2011年があと数分で終わろうとしている大晦日(みそか)の深夜に自ら警察に出頭してきた。それから半年後、つまりこの6月に菊池直子と 高橋克也が逮捕された。しかも菊池と高橋の逮捕は、NHKがオウム事件を扱った力のこもった番組を放映したすぐ後、というタイミングであった。17年の時 を隔てて突然のように現れた指名手配犯は、どこか亡霊のように感じられる。
 過去から亡霊がやってくるのは、われわれがその過去に逢着(ほうちゃ く)した問題をほんとうには解決していないとき、乗り越えていないときである。われわれが過去に出会った難問を、解決できないままに封印しようとしている とき、その過去はわれわれのもとに亡霊を送り込んでくる。17年間、逃げ回っていたのは、3人の指名手配犯だけではない。われわれも、だ。われわれもま た、あの事件の衝撃から逃げていたのである。そして今、3人と一緒に、われわれもまた捕らえられた。オウム真理教事件に。
 執拗(しつよう)に回帰してくる亡霊をふりはらうには、ただ逃げていてはだめだ。逆に、われわれがついに最後まで突き抜けることができなかったあの事件の渦中に、自ら回帰していかなくてはならない。つまり、あのとき覚えた恐怖や不安を正確に再現しなくてはならない。
  実際、阪神淡路大震災の2カ月後に地下鉄サリン事件が起きた1995年という年は、異様な年であった。テレビの特番やワイドショーは、あの年の終わりまで 連日、ほとんど9割の時間をオウム関連の報道に費やした。そこに映し出される、オウムの出家者のコミュニティー。「サティアン」と彼らが呼んでいた直方体 の建物や、奇妙な「ヘッドギア」を付けて修行に励む信者たち。ときに、凶悪なテロリストであるはずの彼らが堂々とテレビに出演して、滔々(とうとう)と荒 唐無稽な論理を展開して反論を試みた。生放送の、日曜日のオウム特番がまさに終わろうとしているとき、信者のリーダーでマンジュシュリー・ミトラの宗教名 (ホーリーネーム)をもっていた村井秀夫が刺される(その日の夜のうちに死亡)というニュースが飛び込んできたときもあった。まるで、映画のような展開で あった。
 今は記憶している人も少なかろうが、私は、あの年の6月、羽田発函館行きの全日空機が病気療養中だった中年の銀行員によってハイジャッ クされた事件を思い出す。犯人はオウム信者を名乗り、透明な液体入りのビニール袋をサリン(ほんとうは水)だとして、そのおよそ1カ月ほど前に逮捕されて いた麻原彰晃の解放を要求してきた。結局、この男はオウムとは何の関係もない人物だった。何が彼をあんな無益な暴挙へと駆り立てたのか。事件が生み出し、 日本中に蔓延(まんえん)していた不穏な「空気」としか言いようがない。
    *
 さて、あの事件のもっていた不気味さ、われわれにい まだに取り憑(つ)いている不安を正確に論理化し、それを乗り越えるためには、事件が作り出した、今述べたような独特の雰囲気の中で書かれたもの、そうし た雰囲気に正対して考え抜かれたものを読むのが、最もよい。事件から長い時間を経て、いろいろな情報がわかってから冷静に事件を分析した書物も重要だが、 事件と同時進行的に、いわば事件と同期しつつ発せられた言葉には、特別な価値がある。その意味で私は、橋本治の『宗教なんかこわくない!』を薦めたい。刊 行されたのは1995年7月である(文庫版は1999年刊)。
 冒頭でいきなり、「これは、�オウム真理教事件�に関する本である」と宣言した上 で、橋本治は、宗教に対して負い目を感じている日本人に対して、ずばずばと明快な口調で自己流の宗教論や現代社会論を展開していく。橋本によれば、オウム 真理教は田中角栄信仰に似たところがある。無論、かつての田中角栄の位置に麻原彰晃が代入される。また事件を、バブル末期の社会意識と結びついたオタク予 備軍の犯罪であった、と喝破する。
 本書では、実にさまざまなことが語られているが、最終的なメッセージはシンプルである。「自分の頭で考えよ。 自分の頭で考えられないすきまに、宗教が入ってくる」。——なんだ、そんなことか、ならば簡単だ、と思ったら大間違いである。そう思っている人は、自分の 頭でぎりぎりまで考え尽くしたことがない人である。
 本書をきちんと読めば、「自分自身で考えるということ」がいかに困難なことであるかということ、しかしそれができなかったことの代償がいかに大きいかということ、これらのことを心底から理解することになるだろう。
  実は、オウム事件を離れても、本書は読みどころがたくさんある。私には、特に、最終章で説かれる仏教論がおもしろかった。橋本によれば、ゴータマ・ブッダ の言っていることは、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」と同じである。仏教は、本来は思想であって宗教ではない。仏教の論理に従えば、ゴータマ・ブッダ こそ世界最初の真の死人、もはや転生しないという意味でほんとうの死人である(神の子が死んで復活することを主張するキリスト教と、人が完全に死に切るこ とを主張する仏教とを対照させることができるかもしれない)。
 橋本の考えでは、仏教が思想から宗教に転換するきっかけは、このゴータマ・ブッダ の死である。そして、宗教化を特に推進した大乗仏教は、ブッダの他に菩薩(ぼさつ)とか如来を登場させてわけがわからなくなるが、その一因は、大乗仏教が 地域の神を「菩薩」という形態で吸収したことにある。などなど、ユニークだが説得力のある仮説が次々と繰り出される。
 最後に、輪廻(りんね)転生を信じてしまった方が合理的かもしれない、といった提案もなされる。どうして合理的かは、本書を読んで確かめてもらいたい。
  こうした仮説や提案は、橋本による「自らの頭で考えること」の実例である。最終的には、橋本とともに、こう結論しなくてはなるまい。オウム的なものを根底 から乗り越えるには、自分自身で考える、ということしかない、と。自分自身で考え抜く術(すべ)を我がものにしたとき、われわれはやっと、オウムの亡霊か ら離脱することになるだろう。

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